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空あり





学生時代から大好きなみうらじゅんさん

言わずと知れた仏像マニア、もとい仏教マニアというべきでしょうか。


みうらじゅんさんが

駐車場によくある「空あり」って

すごい言葉だって話を自著本でされており、

なるほどと納得した記憶があります。

駐車場の「空あり」は「あきあり」と読みますけど

仏教の空とは無のこと。

無であり、全である。

空あり(くうあり)は、無があるってことですが、

無いものあると言ってる。

矛盾ですが、それこそ

空の意味を包括的に表現してると言いたいわけです。

先週瞑想していた時、

わたしの中に引っかかっている何かが浮上してきました。

それは取るに足らないような、小さな違和感。

でもゆっくり慎重に観察していくと


「問題を解決しなきゃ。」


という思いが見えてきた。


虚しいような悲しい感覚。

お腹のあたりに小さな違和感を作っている。

クラゲのようにふよふよ頼りなく彷徨っている。



このクラゲをじいっと観察していたら、

「わたしの意識は、

心の中で沸き起こる感情、思考をチェックし続けている。

そして苦しい時、なぜ苦しいのか問題を突き止めようとする。

そしてその本質を探そうとする。」

それは、わたしの意識が、

問題を探し、生み出し続けているということだ。

とふと思いました。

悲しみを見つけて問題視するのはわたしの意識。

苦しみを見つけて問題視するのはわたしの意識。

わたしの意識が問題と認識することで

それは問題になるいうこと。


ややこし!



じゃあなんでわたしの意識は、内側で起きていることを問題視するの?

とクラゲに尋ねてみた。

そしたら、

「もう自分を見失いたくないから。」

という答えが出てきた。

心の中で起きている感情や感覚、

それが嬉しいものであっても、悲しいものであっても

自分の意識が問題だと認識しなければ、

問題にならないし、ただ流して行けばいいだけの話だ。


なのになぜ、自分を見失わないために

違和感とか、もやもや、を「手放そうと」するのか。

「問題と認識することで、魂に付随した魂以外のものに気づくため、

魂としてのわたしを見失わないため」


という答えが返ってきた。

うん、それはそもそも自覚がある。

居心地が悪いことも、モヤモヤすることも

意識にこびりついたそれをポイしたいだけ。



クラゲと禅問答のようなやりとりをやっていたら、

急にしーーーーんと、心がゼロになった。



どんな違和感も、もやもやも、問題としなくたっていい。

ただそこにあるその感情を感じ、認識すればいいのだ。

でも、問題と認識したっていい。

その違和感、もやもやの本質を手放すことができるから。

そう思った瞬間、

問題と認識することも、

問題と認識しないことも、

どちらでもいい。

どちらもとても愛おしいことだと感じました。

その二つがスーッと一つにかさなって、

完全にわたしの中で統合した瞬間、

わたしの中にすべての答えがあって、無である。

善も悪も、光と闇も消えて

まさに「空」そのものになった感覚でした。

空っぽなのに、すごい豊かなの。

空っぽで、何もない。

まさにゼロでパーフェクト。

だけどものすごいエネルギー。

エネルギーがわたしの中で、ミッチミチに満ちて、

無音のような、無重力のような、

しん、とした静けさ。

これが、空かぁ。って感じました。


頭では理解していても、

完全に体と心で体感できたのは初めて。

その昔10日間の瞑想センターに滞在した時に感じた

宇宙との一体感みたいだけど、

もっと自分成長したかも。笑


千と千尋で、

どろっどろの川の神様がお風呂でさっぱりした時に、

「よきかな〜〜」っていうあの感じ。

そう、ぶっちゃけどっちだっていいんさ。

全部まるっと、

人生はパーフェクト。